
自分がこれまで「感動した」と思った出来事を振り返ったとき、二つのことを思い出しました。
一つは子どもの頃の花火。
もう一つは、社会人になってから設備を改造したときのことです。
全く違う話なのですが、自分の中では少しつながっています。
近所のおじさんにライターを渡された
子どもの頃、近所に私を可愛がってくれたおじさんがいました。
ある夏、花火をしたいと言った私に、おじさんは花火と一緒にライターを渡し、火の付け方を教えてくれました。
今なら、小さな子どもにそのまま渡すのは危ないと思います。
実際、あとで母に見つかって、おじさんはかなり怒られていました。
でも私は、火が怖いという感覚と、その先にある花火のきれいさを同時に覚えました。
あの夜のことは、今でも残っています。
社会人になって、設備を自分で改造した
もう一つは、社会人になって5年目くらいの頃です。
工場で品質トラブルが続いていて、どうしても精度を上げたくて、加工設備に手を入れました。
今の立場から言えば、設備を勝手に改造することを勧めるつもりはありません。
当時の私は、それでも何とかしたいという気持ちの方が強かったのだと思います。
改造した後は、本当に怖かったです。
設備が壊れないか。狙った精度が出るのか。自分の判断が間違っていなかったか。
しばらく落ち着きませんでした。
それでも設備は動き、狙っていた結果が出ました。
そのとき現場のリーダーから言われた言葉を覚えています。
「めちゃくちゃな事をやってるなと黙って見てたんだけど、でもこれが実績だ」
私にとっての感動には、少し怖さがある
二つを並べてみると、どちらも最初に怖さがありました。
火に触る怖さと、自分の判断で設備を変える怖さ。
もちろん、危険なことをすれば感動できるという話ではありません。
ただ、自分でやってみたいと思ったことに踏み込み、結果が出た瞬間は強く記憶に残っています。
今は、自分が見守る側になりました
今は自分も、人に仕事を任せる立場になっています。
そこで昔と同じ無茶をさせたいとは思いません。
安全や品質のルールは必要ですし、失敗した人を追い詰めても意味がありません。
一方で、「やってみたい」と言った人から、失敗する可能性まで全部取り上げてしまうのも違う気がします。
任せるところは任せる。危ないところは止める。そして失敗したときは一緒に考える。
自分が若い頃に感じた、怖さと面白さの両方を、今度はどうやって次の人へ渡すか。
最近はそんなことを考えています。

コメント